防府出身者・在住者のための情報掲示板2011年No.951

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No. 登録日付 お名前 ご住所 内  容
9510 7/26 taka21 防府市植松

○かわぐちさんへ
そうですね。小学校でも、便所から青白い手が出てきて・・・という怖い話しがありました。
○長ねこ♪ さんへ
そうでしたね。瓶入りファンタやコカコーラの自動販売機がありました。瓶が斜めに並んでいて、瓶を取り出しては、自販機の前の栓抜きで栓を開けて飲んでいました。懐かしいです。
○タカさんへ
帰省、お疲れ様でした。投稿ありがとうございます。
大平山いいところですねよね。
今では、年間パスポートも販売されているようです。しばし、ゆっくりできてよかったですね。今後ともよろしくお願いします。
○kumazaさんへ
いつもありがとうございます。
私は火事のあったその日(2011年7月22日)に、たまたま近くまで行く機会がありました。なぜ、宮市の道が通行止めになっているかがわからなかったですが、その日の昼のニュースで、宮市本陣兄部家の火災であることがわかり、びっくりしました。世帯主の方が亡くなられたとお聞きしました、お悔やみ申し上げます。また、貴重な文化財のことを思うと、残念でなりません。
宮市がどれほど栄えていたかを現在に留める建物でした。
kumazaさん写真をありがとうございます。
○tmyn39さんへ
ありがとうございます。帰省、お疲れ様でした。
竹とんぼ作りいいですね。私は作ったことがないです。子どもたちが喜びそうですね。今後ともよろしくお願いします。

○2000年11月28日の防府市内
kumazaさんの写真を拝見し、自分のデジカメの写真データを探してみました。
宮市本陣兄部家
の1番古い写真は、2000年11月28日15時58分でした。11年前の防府です。2番目の写真は、1番目の写真で車が入ったので、写し直した写真です。1番下の写真は、本陣の門から撮影をしたものです。
昨年、道路がきれいにカラー舗装されましたが、このときは、普通のアスファルトの道路です。
1日も早い復旧を願って。
2000年11月28日防府市宮市本陣兄部家
2000年11月28日防府市宮市本陣兄部家
2000年11月28日防府市宮市本陣兄部家

○2011年7月24日日曜日正午より地デジ、本格スタート。
地デジがスタートしましたね。私も慌てて、1ヵ月前にテレビを購入しましたが、ケーブルテレビは、デジアナ変換でしばらくはアナログテレビでも視聴できるように配慮するそうで、がっかりもしましたが、地デジの画面の美しさで、半分は納得しています。

いずれにしても、あの昭和30年代から昭和40年にかけての、子ども時代の「テレビがつかなくなったけれど、(テレビの)横をドンドン叩いたらついた」なんてことは、もうないのでしょうね。
また、「昔のテレビはチャンネルが円盤のようになっていて、ガチャガチャ回してチャンネルを変えていたんだよ。その円盤は、VHSとUHFの2つがあって・・・。」こんなこともかなり昔になりましたね。以前、子どもに昔のテレビは白黒だったと説明しても、なかなかピンとこないみたいですね。
「パソコンでも昭和50年代では、文字だけの画面の場合は白色か緑色の1色だけしか出なかったんだよ。絵を描いても16色しかでなかったんだ」と話したり、だんだん説明も、ムキになります。
白黒テレビにしても、NECのパソコンにしても、目の前にないから説明しづらいし、わずか数十年でここまでの進化ですから、すごいことです。今のテレビは、完全にパソコンですしね。

後世に残すために、チャンネルを掲載したいと思います。
●山口ケーブルビジョン開局前
VHS
1 NHK教育
2 KBC九州朝日放送(九州波)
8 RKB毎日放送(九州波)
9 NHK総合
10 TNCテレビ西日本(九州波)
11 KRY山口放送
UHF
28 YAB山口朝日放送
38 tysテレビ山口
※各家庭のVHSのアンテナは、上部に福岡方面の九州波を狙う大型のアンテナ、(株)に大平山を狙う小さめのアンテナを設置している方が多かったのではないでしょうか。
したがって、九州波を見るときと地元局を見るときは、アンテナを切り替えて視聴していました。
防府市の中心部は、大平山が山口県の中心の送信所であるために、比較的安定してテレビを見ることができたと思います。また、九州波も比較的広い範囲で視聴できたと思います。ただし、UHFの福岡放送FBSは、入りづらかったと思います。
●山口ケーブルビジョンによるアナログ放送
2011年7月24日正午まで
1 NHK教育
2 KBC九州朝日放送
3 YAB山口朝日放送
4 FBS福岡放送
5 tysテレビ山口
6 TVQテレビ九州
8 RKB毎日放送
9 NHK総合
10 TNCテレビ西日本
11 KRY山口放送
12 ケーブルテレビ独自
※現在のアナログ放送は、デジアナ変換で、地デジに準じたチャンネル構成になっているようです。
●山口ケーブルビジョンによる地デジ放送
2011年7月24日正午から
1 NHK総合
2 Eテレ(NHK教育)
3 tysテレビ山口
4 KRY山口放送
5 YAB山口朝日放送
7 TVQテレビ九州
8 TNCテレビ西日本
12 ケーブルテレビ独自
※7月24日以前も地デジ放送をしていましたが、24によりTVQが新に加わりました。
※KBC九州朝日放送とRKB毎日放送については、現在、検討中とのことです。

9511 7/26 そら色 広島県 宮市の兄部さん宅が火事と聞いてびっくりしました。
兄部さんは松崎小学校のクラスメートです。
ピアノが上手で、お兄さんが一人いらっしゃいましたが、お元気でしょうか。
先生も、旧家だと 事あるごとに話をされていましたが、それを少しも鼻にかけない素敵な女の子でした。
しっかりした品の良いおばあ様がいらして、旧家の建物に何度かお邪魔しました。
今でもセピア色の入学写真に、少しはにかんだ兄部さんが居ます。

松崎小学校では、歴代の校長からよく菅原道真公の話も聞かされました。

夏休みになると いつも幼い時を思い出します。
磨きこんだ木造の廊下、講堂、昔の松崎小学校があります。
講堂で夏休みの前半は 合唱団の練習をしていました。
コンクール前だったので毎日のように 暑い中練習をして、よく貧血で倒れていました。

もう防府に住むことはないけれど、お墓もあるし、いつかは帰る故郷です。
9512 7/28 taka21 防府市植松

○そら色さんへ
ありがとうございます。
じっくりと読ませて頂きました。ありがとうございます。
読めば読むほど、今回の火災が残念でなりません。
松崎小学校へは、市内の小学生が集まる集会があって、講堂へ入ったことがあります。
今朝の防府市内は、快晴です。きっと、松崎小学校の校庭でも、以前と同じようにセミがないていることでしょう。

○小学校の国語の教科書で「一切れのパン」という教材
東北地方の報道を見ていると、「希望」の大切さを痛感します。「希望」を自らが作り、それに向かって行く。なでしこジャパンの活躍を見たら、こちらも元気になります。

そうした中で、小学校の国語の教科書で「一切れのパン」という教材があったのを、ふと思い出しました。私と同世代の方は、おわかりになると思います。

第2次大戦の最中、ナチスに捕らえられ主人公は、列車から逃亡を決める。その時に、ハンカチにくるまれた「パン」をもらい、その「パン」を支えに、自宅までなんとか逃げきる。そこで、その「パン」は、木切れだったということがわかる。という物語。
希望は無限の力。しかし、その希望を、友の心にともすことは難しい。相手の心によりそらないと通じないでしょうね。
共にがんばるという、対等な姿勢がなにより必要なのかもしれない。
今、何十年も経って、ようやく、この教科書の物語が少しわかったような気がします。
この国語の教材は、よく覚えています。それだけ、強い印象だったのでしょう。また、東京オリンピックの陸上競技で、セイロンから選手が、周回遅れであったが、最後まで走りきったという話もよく覚えています。が、題名がわかりません。

○2011年7月21日の防府市内
暑い夏の日の夕暮れ。佐波川の大崎橋から楞厳寺山方面を見た風景。慌ただしい毎日の中、しばらく見てしましました。
2011年7月21日暑い夏の日の夕暮れ。佐波川の大崎橋から楞厳寺山方面を見た風景
○2011年7月23日の防府市内
大崎橋から見た佐波川上流。佐野堰周辺。
2011年7月23日大崎橋から見た佐波川上流。佐野堰周辺。
○2011年7月24日の防府市内
航空自衛隊防府北基地の一番女山に近い、入口付近。
この「警備犬に注意」の看板で子どもの頃に、どれだけ怖がったことでしょうか。小学生の頃、私は警備犬を見たことがなかったのですが、友達は見たと言っていました。
2011年7月24日防府市航空自衛隊防府北基地。警備犬注意の看板

9513 7/28 長ねこ♪ 名古屋市 セイロンのランナーのお話、私も記憶にありました。
調べてみましたら、確かに「ゼッケン67」というタイトルで昭和40年代に小学4年生用の教科書に載っていたお話です。悲しいことですが、主人公のカルナナンダ選手はオリンピックの10年後にボートの事故で亡くなったとのことです。でも文通していた日本人の男性の方がスリランカを訪れ、ご遺族などに映像などのゆかりの品を渡したとのことでした。このお話を思い出して、今とても苦しい思いをしていても、希望を持って決してあきらめないことだと思いました。
9514 7/28 taka21 防府市植松 ○長ねこ♪さんへ
ありがとうございます。おかげさまで、題名「ゼッケン67」で、少し思い出しました。
周回遅れで、観客はあまり気に留めていなかったけれど、周回遅れで何周もトラックを回るので、「あのゼッケン67は誰なんだ?」ということになり。だんだん、観客が応援をして、ゴールしたときは、1位の選手のゴールと同じぐらいの拍手につつまれたのですよね。
そういえば、昭和40年代の教科書は、国語の教科書で「上」よ「下」がありましたが、新しい教科書をもらう時に、決まって漢字のところに貼る訂正シールが配られて、使う前に、一生懸命に貼っていました。覚える漢字の範囲が変わったからなのかわかりませんが、そのような記憶があります。

話は脱線します。
また、当時は、木製の机と椅子でした。机の上は、落書きがありました。また、木の節に穴があって、消しゴムを落として遊んだりしていましたね。特に低学年は、2人用の机で、机の上の部分がふたになっていて、それがおもしろかった。
ぞうきんを机の下の横木にかけていました。机の板の横か、イスの上の部分には、給食袋などをかけていたような気がします。その、ぞうきんは、乾いてかちこちに曲がって固まっていたように覚えています。掃除時間には、机を教室の後ろの方へ全て移動して、掃いてから、ぞうきんがけです。バケツは、金のバケツです。必ず1年に数回は、誰かが水の入ったバケツを倒していました。
最近、ぞうきんがけはしていませんね。
外の掃除は、てみとがんぜきとたけぼうきでした。どこまで、一生懸命に掃除をしたかは覚えていないのは、きっと、していないということだと思います。穏やかな時間だったことを思い出します。
9515 7/29 kaz.k 京都市中京区

○机の記憶
"京に潜伏する長州人"です。takaさんの思い出の「木の机」マイマイ新子と千年の魔法 の中でも、そのものズバリが松崎小を舞台に描かれていてメイキングオブ マイマイ新子と千年の魔法(一迅社刊)収録の美術設定(線画)など見ていると当時、掃除で移動させた机の並びを床の板目に合わせて揃えていたようなことを思い出しました。昭和資料館的な施設が防府にもあって今でも現物が見れるんですよね。

But,自分はtakaさんの後輩で華城小・昭和47年(1972年)の入学ですが、1年生のときに木の机を使ったような感覚はあるものの、記憶は正直ビミョーです。自分が入学する前年まで婆様(祖母)が華城小で給食調理員をやっていたのと、職員室には入学前か△■※がおった、とかいった事情で隣の華城幼稚園時代から華城小の中を結構見ているので、自分の記憶がそのときのものか、仮入学のときだったか入学後のことなのか、幼稚園〜小2までの様々な印象が混同していてはっきりしません。
ただ、自分の入学時には給食室や図書室がある鉄筋コンクリート製新校舎の西側3分の1が既に完成していた一方で、木造の旧校舎や便器の奥から白い手が伸びて出てきそうな便所もまだ使用されていたこととか、2年生のとき(1973年)が開校100周年記念で玄関のある校舎中央部もこのときまでに完成し、新校舎の整備に伴って一時的に廃止されていたプールも運動場東側に仮設復旧されたこと、残る東側3分の1もハコ(建物)は昭和49年(1974年)までに完成して、このときまでに旧校舎も講堂を残して解体されたこと(←これは国土情報ウェブマッピングシステムで確認できます)、旧校舎解体後は一時、プレハブの仮校舎が運動場北西側にあったこと、華城小のシンボルともいえる楠の大木はもともと2棟あった旧校舎の中庭にあって、工事に伴う移植はされておらず運動場は以前よりかなり広くなっていること、などなど憶えています。これらは、1年生のとき担任の先生から注意されるもふざけて、当時流行っていた「シェーッ!」をかましたか「どーも、スんずれぃしました」のギャグで返したかして先生の怒りの押7・Pに自ら油を注ぎ、罰として旧校舎の廊下拭きをさせられたが一切こりておらず「また拭いちゃげるね」と言って笑顔で帰宅し先生を呆れさせたこととか、常習的に宿題をサボったため机を教卓の横に付けられたが、給食の時間にお代わりが一番にできたのは今でもラッキーだったと思っている4年生時の教室はプレハブ校舎だった、といった数々の栄光の記憶(←アホ)によって裏付けられております(自爆)。

 もといっ!話が脱線しました・・・m(__)m

 自分の中の"机の記憶"の大半はtakaさんの言う木の机ではなく、天板が化粧合板だったスチール製の机で多分、中・高学年になってからの記憶ですね。スーパーカー消しゴム用のサーキットコースが机いっぱいに書いてあって、休み時間になるとノック&ボタン式ボールペンで弾いて競走させて遊んだとか。「遊び道具を学校に持って来てはいけません!」「これは消しゴムです!」とは、よく考えた言い訳というか屁理屈というか(笑)。
その他、当時の教室の思い出というと「"ゾウが踏んでもこわれない"アーム筆入」とか、先がチビたら抜いて後ろに差し込むと尖った新しい先が出てくる「ロケットペンシル」いった、当時はとても画期的なものに見えた文房具類に関してですね。シャーペン(シャープペンシル)も自分の小学生時代に一般化したと記憶していますが、筆先の硬さが書き方の習得に悪いとか言われて、学校では禁止ムードだったように思います(←近年は時代も変わったんかな〜?)。ちなみに"スーパーカー消しゴムはじき"のトレンドは圧倒的に「BOXY」のボールペンでした。それと最近見かけませんが「ラッションペン」って今でも売ってるんでしょうか?時々思い出して使いたくなるのですが。

9516 7/30 taka21 防府市植松

○kaz.kさんへ
ありがとうございます。鮮明に覚えていらっしゃいますね。
ロケットペンシル、ありましたね。また、象がふんでも壊れない筆入れは、私も青色を持っていました。
小学生時代は、机の上で遊んでいました。懐かしい懐かしい思い出です。ありがとうございます。
私たちの頃は、木造から鉄筋へと建て変わる時代を過ごしました。今も、その当時の鉄筋校舎です。子どもが通っていますので、中へ入りますが、懐かしい校舎です。でも、さすがに、古くなりました。この校舎ができた当時、水洗トイレが珍しい時代でしたので、授業で、トイレットペーパーの使い方や、水の流し方を習いました。
どうも、ありがとうございます。

○2011年7月16日の山口市内
秋の国体もあり、山口宇部有料道路が、山口市嘉川より、山口市の朝田まで延長されます。陸上競技場までですね。
ずいぶん、便利になります。とくに、国道9号の小郡地区がよく渋滞しますからね。

さらに、来年4月には、この山口宇部有料道路も無料化されると聞いています。また、2015年には、中国自動車道とのICも設置される予定だそうです。

この、嘉川から山口市朝田までの開通が、明日2011年7月31日です。先日、たまたま、山口宇部有料道路を走った時に、北側の工事区間を見ると、かなり完成していたので、撮影をしました。
カラーコーンより手前が、今までの山口市嘉川からの宇部有料道路になります。
2011年7月16日山口市嘉川ICより工事区間を見る

9517 7/30 やまね ご出身地 山口きらら博のことを覚えていますか?あのときに10年後に手紙を出そうというポストカプセル郵便という企画があって、我が家にも当時小学生だった息子からハガキが一枚届きました。そうか、あれからもう10年経過したんだなとちょっと感慨にふけると同時にこのハガキを自分で受け取ることができてよかったなあと思えてなりません。もちろん、2年前の大雨災害や今年の東日本大震災などがあったということもありますけど、実はこの春にちょっと病気をしたからというのが大きいですね。taka21さん、今はお元気で忙しくしていてもお医者さんのちょっとしたアドバイスには耳を傾けましょうね。
そういえば、10年前は21世紀最初の年ということでタイムカプセルのイベントが様々あったと思いますけど、10年後の今年に開封する予定もあるのではないでしょうか。
9518 8/1 taka21 防府市植松

○やまねさんへ
いつもお世話になっております。ありがとうございます。
私の家にも届きました。当時2才の子どもに宛てた葉書です。一瞬届いた葉書を見たときに、なんお葉書かわかりませんでした。でも、うれしかったですね。いい企画だと思います。
ご病気知りませんでした。
はい。私も気をつけたいと思います。タイムカプセルイベントはありそうですね。

葉書の件を調べて見ました。きららメモリアルイベントで送られたのですね。詳しくはこちらへ
また、今回のおいでませ山口国体でも同じように10年後へ届く葉書があるようです。詳しくは、こちらへ
10年後の自分へ葉書を書いてみたいですね。

○有線
みなさんは、有線放送はご存じですか?
音楽をテンポに流す有線放送ではありません。有線放送電話のことです。略して有線と言っていました。30代以上でないとわからないかもしれません。

農村地域では、農協からのお知らせが生活にとって重要でした。さらには、農村地域のコミュニケーションを充実させるために、農協が母体の有線放送がありました。
しかも、この有線放送から電電公社(今のNTT)の電話に接続することもできるという優れものでした。しかも料金は定額でした。

昭和40年代前半までは、四角いスピーカーに受話器が横に付属しているという電話機があって、電話がかかってくるときは、ベルの音ではなくて、交換手の「6番」「6番」と呼ぶ声でした。
簡易的な回線なので、1本の線を複数の家が使用するようになっていて、その1本の線に番号が振られていました。私の家は、たしか6番だったので、「6番」と聞くと、すぐに受話器をとって電話に出ると、交換手が「どうぞ」とか言って、相手とつながり、会話ができました。
電話をかける時は、受話器をとると、交換手が出るので、「○○の3番をお願いします」と口頭で相手の番号を言います。しばらくすると、交換手が、「どうぞ」といわれて、会話ができました。
今思えば、すごく古い電話だなと思いますが、当時は、一般の家でも電電公社の電話がある家庭は少ない中、農家では、有線電話でコミュニケーションをとっていました。

ただし、朝と昼と夕方の1日3回だったと思いますが、有線放送の番組が流れます。野菜などの市場価格の他に、小学校の合唱や作文の朗読なども流れました。その番組の間は、電話ができないのです。
この夕方6時からだったお思いますが、この放送が流れている時は、母が風呂に薪をくべていて、もうすぐ夕食だという雰囲気でした。曲名は忘れましたが、いつもクラシック音楽が番組のテーマ曲として流れていました。温かな雰囲気でした。
火災が発生したとき、お年寄りの迷子なども、この有線放送の一斉放送を使いその都度、連絡がありました。今思えば、身近なコミュニティツールであったことは間違いありません。

さて、そのスピーカーに受話器がついていた電話機も、普通の黒電話のようなタイプの電話機が登場しました。これから、呼び出し音が、普通の電話機のようにベルが鳴るようになりました。ただし、ダイヤルの下には、番組用のスピーカーがあります。

この有線放送も電話の普及によって、平成3年のころに廃止になりました。わが家も昭和50年代鋼板には、NTTの電話があったと思います。
農家の方で市場価格の情報が聞きたい方は、NTTのサービスで、一般の電話回線に番組用のスピーカーをつけることができるそうです。
さて、なぜこのようなことを書いたかというと、昨日、使わなくなった有線放送の電話機が倉庫から出てきたからです。懐かしかったですね。約20年弱ぶりでしょうか。

JAは凪有線放送の電話機

9519 8/2 長ねこ♪ 名古屋市 有線のお話、タイムスリップしたようでとても面白かったです。家が農家をしている友達の家にありましたよ。普通の電話とは違うので何だろうと思っていました(笑)。そうそう、今は懐かしの黒電話ですが、実は我が家は平成15年に建て替えるまでずっと使用していました。義父母がプッシュフォンを使えなかったので。階段の横に黒電話があって、それをひざに抱えて通話していた義母の姿をふと思い出しました。あと先日テレビで大阪の中学生が民泊体験でどこかの島(失念)へ行った際にその家にある黒電話から自宅へ電話していました。ダイヤルの回し方から教えてもらっていて面白かったです。

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