防府出身者・在住者のための情報掲示板2013年No.989

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No. 登録日付 お名前 ご住所 内  容
9890 6/10 taka21 防府市植松

○ シャリさんへ
西高5期生の同窓会、盛り上がってよかったですね。
なるほど、カレーショップでは、「学校が遠いのでいつも防高、防商、多々良に遅れとってました。」というようなお悩みがあったのですね。
よかったですね。

○六甲おろしさんへ
帰省、お疲れ様でした。西高5期生の同窓会、よかったですね。
お二人から、楽しい雰囲気が伝わってまいりました。

○田中正穂さんへ
ごぶさたしています。力作の動画ですね。ありがとうございます。
きっとみなさんが、ご覧になっていると思います。

○爺河童さんへ
いつも素敵な心温まる文章をありがとうございます。
自然と当時の防府の人々との生き生きとした交流が目にうかびます。
また、当時の貴重な資料です。本当にありがとうございます。
「藁工場」というのがあったのですね。知りませんでした。私の子どもの頃、昭和40年ごろ、友達の家で、ある棟の中に藁がいっぱいあって、その上に寝転がったことを思い出しました。

お元気でうれしいです。私の地元では、自治会などの地域活動の主体者は、70代の方です。ここ最近、60代の方は現役で、働いている方がまだまだ多いのが現実です。
どうぞ、お元気でいらっしゃてください。続きの投稿を楽しみに、お待ちしています。


○xpのノートパソコン
xpのノートパソコンも残り1年が過ぎ、その対応策に日々悩んでいます。私のような方も多いのではないでしょうか。
windows3.1、windows95、windowsMeそして、windowsXp。
xpだけでも、約7台のパソコンを故障やスペック不足で乗り換えていますから。これからも、将来、おいかけて行かないと思うと、ぞっとします。

9891 6/10 爺河童 茨城県牛久市 Takaさん初め同郷の皆様
仰るとおり、当地でも、自治会の班長、役員、会長職は皆さん、元気な70代の爺さん、婆さんですが、「少子高齢化」の元凶世代のように巷間言われているような気もあり、少々肩身の狭い思いがあるのも事実です。それでも、日々健康に感謝し、社会の安寧を思いながら、地域社会と繋がって生きております。

私のPCもMicrosoft XP Home Editionで、己の歳と同じようにあちこち不具合が出てきて、今年中の買い替えを急かされています。「Japanet Takata」の特売品に切り替えようかと思案中です。さて、前回の続編です。

今から、60年も昔の昭和26年から29年頃に三田尻で腕白盛りの時代を過ごした私たちガキの遊びには、楽しさ愉快さとともに「生活臭」も大いに漂っていました。

★春の遊び:今の世の中で、「潮干狩り」といえば、有料の潮干狩り場で、業者が予め用意した、あさり、ハマグリ、巻貝などを、親子揃って楽しく、にぎやかに掘り当てる情景を想起しますが、当時の三田尻湾でのそれは、鼻水を滴り落しながら、一心不乱になっての「貝獲り」そのものでした。
潮が満ちてくる気配を感じならが、岸の方を見やると、「流下式製塩」で使われている「ヒマラヤ杉」の形をした「枝支架」が目に入り、その向こうには、防府鐘紡工場の煙突群から立ち上る煙を観ることが出来ました。足元の浜には、今は絶滅危惧種と指定されている、『カブトガニ』の緩慢な動作があちこちに見られましたが、捕まえて持ち帰ることはありませんでした。当時は、工場からの排水など、そして排水による魚介類への影響など、気にするような時代ではありませんでした。丁度そのころ、熊本県水俣湾には、「日本窒素」から「水俣病」の原因とされた、「メチル水銀化合物」が排出されていた頃ではないでしょうか。

★初夏の遊び「蓬(よもぎ)摘み」:端午の節句が近づきますと、遊びの一つとして、「蓬摘み」が始まります。独特の香りを放つ摘み取ったばかりの籠一杯の「蓬」を近所の「餅屋」さんに、持ち込みますと、5円から10円で買い取ってくれたものです。

★初冬の楽しみ「御神幸祭り」そうです。毎年11月の終わりに開催される「裸坊祭り」。この時ばかりは、三田尻全体がお祭りムードに染まり、老いも若きも、金持ちも貧乏人も、浮き浮きとした、華やいだ雰囲気に包まれていました。私は早く、あの凛々しい褌姿の若者になりたいものだと羨ましく思っていたものです。

★一年を通じての遊び:は何といっても、「くず鉄拾い」でした。この行為は季節を問いません。鉄、真鍮、銅、の順で、高く買ってもらいましたが、ある時、私ども我鬼仲間が三角ベース野球をしていた時、偶然にも、「ゴールドマイン」ならぬ『銀山』を掘り当てました。、またまた長くなってしまい申し訳ありません。


★『銀山発掘』の経緯と結末。
初夏を迎えようとしていた梅雨時のある日曜日の午後のことでした。
「局の内」の「K体温計三田尻工場」所有の「テニスコート」で、私たち5、6名の餓鬼どもが、小雨の中で三角ベース野球を楽しんでいた時のことです。この「テニスコート」の裏側の石垣の下の崖を降りると「局の内」まで来ている「海水路」に繋がっていました。あたり一面独特の潮の匂いが漂っていました。
「テニスコート」のベンチの前の砂の上で、鈍い銀色を放ち、ぬめぬめとした液体らしいものを、仲間の一人が見つけました。野球を中断した私たちはその得体の知れない「液体」の傍に集まり、釘付けになりました。そのあたりの砂地を少し掘ってみますと、あちこちにその『銀色液体』が現れました。砂と共にその液体を掬い上げて、手のひらに載せますと、ころころと転がり、掴まえることは出
来ません。年長者の一人が、“これはひょっとすると「水銀」かもしれん”と言い出しました。この時、みんなの頭には、「くず鉄屋に持ち込めば高く買ってくれるのでは?」との思いが浮かんだに違いありません。そこで、野球は一旦中止し、この発掘は他人には内緒事項にして、それぞれの家に戻り、「スコップ」、「洗面器」、「空き缶」を持ち寄ることにしました。「スコップ」で水銀を含む
土砂を「洗面器」に入れて、「テニスコート」の裏の石垣を降り、潮が引いた海水路に向かいました。そこで僅かに流れる引き潮の海水を洗面器の中に入れ、少しずつ、混じった土砂を流し落としますと、底には銀色に輝く「水銀」だけが残ります。この「水銀」をあの小さな、「味の素の空き缶」(マテ貝獲りの道具の一つです)に入れますと、1キログラムはあるかと思うほどの確かな重さで
す。恐る恐る「くず鉄屋」に持ち込みましたら、そこの主人は何も聞かずに、一缶、何と、¥300円で買い取ってくれました。この時も足に震がきました。当時の金の300円とは、まさに大金でした。喜び勇んで家に戻り、パートから帰ってくる母親を待ち、経緯を話して300円そっくり母親に渡しました。母親は、“あんたの言うことは本当だね。悪いことをして盗んだお金ではないね“と質したものでした。その夜遅く、鐘紡の下請け会社に勤めていた父が酔っ払って帰宅しました。暫くして“マサル、こっちへ来い!!”と凄い剣幕で私を呼んでいます。“この野郎!”と拳骨一発。“乞食みたいなことをしやがって!”とまた一発。「こんな真似を二度としたら勘当だ!」と、また一発が飛んできました。 何時も私の味方をしてくれた母親は20年前に、真面目一徹、職業軍人、頑固そのものの親父は10年前に、他界しましたが、お陰で、水銀中毒には罹らず、姉と私、二人弟たちは、四人は、ぐれもせず、横道へ逸れずに、それぞれの道を歩み続けており、両親には感謝の一言です。
9892 6/11 taka21 防府市植松 ○爺河童さんへ
懐かしい思い出を本当にありがとうございます。
また、ご配慮もしていただきありがとうございます。
当時のいい時代を感じました。多くの方が、懐かしがっていらっしゃると思います。

カブトガニ。昭和40年代始めも、たくさんいました。潮の香りとともに、あの姿を思い出します。
ヨモギは、母が戦時中の学徒動員で、勉強もしないで、ヨモギ取りに行っていたことを話していました。母は、秋穂町に住んでいましたので、秋穂の中道へ取りに行っていたようです。その中道も、今では空き地に、産業用太陽光発電が設置されるようです。
くず鉄拾いも、今ではリサイクルということで、市内各所で民間の回収所もできています。時代は、不思議にも繰り返しているように感じます。
『銀山発掘』。興味深く読ませていただきました。今では大問題になったと思います。当時の世相だからこその話しだと思います。

さて、当時は、どのような歌を歌っていらっしゃいましたか?
また、当時の服装は、どのような服装だったのでしょうか?
今も思い出すような食事などは、ありますでしょうか。
質問ばかりですみません。
どうぞ、よろしくお願いします。

○「未来へ残したい私の防府の絵」の募集について
NO.9842で予告させていただいた「未来へ残したい私の防府の絵」の募集について、詳細を現在企画しています。
今の世はデジカメやスマホがあって残せますが、昭和の時代は、写真はありましたが、気軽に残すような手段はありませんでした。記憶は、自分の頭の中だけです。「心のデジカメ」です。その「心のデジカメ」の写真を絵として書いていただく企画をまもなくスタートしたいと思います。

まだ、募集窓口の件など、詳細を煮詰めていますので、後日お知らせします。どうぞ、よろしくお願いします。
9893 6/11 爺河童 茨城県牛久市 当時のはやり歌と音楽的な刺激

昭和26年の春に熊本から三田尻の華浦小学校に転校した私の密かな楽しみは、昼の給食の時間でした。
防府市の年表によれば、防府市小学校で給食が始まったのは昭和22年とありますので、敗戦の2年後には、「給食制度」が採用されたことになります。貧乏人の子供を抱える家庭には朗報だったと思います。コッペパン、脱脂牛乳、野菜スープ、時には、鯨の白い脂身、あのぜんざい風に煮たスープなども出されましたが、当時の空き腹を抱えたガキには、どれもこれも、あっという間に消えてなくなりました。
その当時、給食の時間に校内に流されていた数々の洋楽は決して忘れることができません。華浦小の「放送係」か「音楽の好きな先生」の音楽的センス・嗜好には、今でも頭が下がる思いです。
「ドリゴのセレナーデ」「シューベルトの子守唄」「マドンナの宝石」「ペルシャの市場にて」などだったと思います。
当時華浦小学校の音楽の時間にどのような歌を歌っていたかは定かではありませんが、巷では、美空ひばりの「私は街の子」「ひばりの花売り娘」「リンゴ追分」、菅原都々子の「連絡線の歌」、灰田勝彦の「アルプスの牧場」、津村謙の「上海帰りのリル」、春日八郎の「赤いランプの終列車」などが、ラジオから、レコード屋さんから、流れていたように思います。
今では地元の三つの合唱団、二つは混声、もう一つは男声合唱団、に籍を置き、属し、毎週水、土、日と、100人近い合唱仲間に会い、共に合唱を楽しんでいるところです。
これも華浦小学校の時に受けた音楽的な刺激の賜物と思っています。
華浦小学校の「制服」は定められていたようですが、私は着古したジャンバーまがいのよれよれの服を、年中着ていました。
9894 6/14 taka21 防府市植松 ○爺河童さんへ
さっそく、ありがとうございます。
当時の給食時間の様子が、目に浮かぶようです。そして、現在、合唱団でご活躍とのこと。素晴らしいですね。
過去と今が音楽で繋がっているのがいいですね。
ありがとうございます。
9895 6/17 キャンディママ 滋賀県  いつまでたっても、エッチラオッチラ入力するのでなかなか投稿できませんが、いつも楽しみに読ませてもらっています。TAKAさんはじめ皆様、ありがとうございます。
 住まいの近くで給食センターが新築され、衛生面や、経費など良い面があるのだろうけれど、配達の間に冷めてしまうねなどと主人と話していたタイミングで、給食の話題がでたので、がんばって書き込むことにしました。
 昭和30年前後の記憶ですが、もちろん給食室で、おばさんたちが、作ってくれていました。
給食当番が回ってくるとエプロン姿で給食室まで取りにいって蓋付きバケツみたいな汁入れを両側から二人でもって運んでいました。ある時二人のタイミングがずれて、渡り廊下で、ぶちまけてしまい、組のみんなは今日は汁なしかと半泣きでしたが、給食室に戻ると大きな鍋から、もう一度よそってくれて、二人で大安心しました。午後の授業中は、洋服まで浸み込んだ汁のにおいで、その頃食の細かった私はむせていました。あの時の相棒はだれだった?霞のかなた・・・
まだまだ貧しい時代、西浦小学校は道路からそそり立った石垣のうえの玉土手に植えられたお茶の木でお茶を摘んだ記憶があります。
 TAKAさんが防府の日常を残そうと努力されていますが、こうして時間が過ぎると鮮明だったはずの思い出がいつの間にか薄れてきています。昔、人間は辛いことがあっても忘れるから生きていけると母がいっていましたが、楽しい、懐かしいことは覚えておきたいものです。
9896 6/17 taka21 防府市植松 ○キャンディママさんへ
本当にありがとうございます。
給食のエピソード。いいですね。似たような記憶は、多くの方がお持ちではないでしょうか。
小学校3年前まで、脱脂粉乳でした。そのミルク缶も熱かったですね。
小学生低学年時代は、顔が隠れるような大きなマスクをして、給食当番をしていました。本当に楽しい時間でした。家では食べられないようなものを食べられるのがうれしかったですね。カレーシチューも、パンを小さくちぎって、皿を掃除するように食べるのが、私は好きでした。家のカレーとどうして味が違うのかと思いました。でも、鯨のオーロラ揚げが私には一番の好物でした。

キャンディママさんは、その汁の臭いがあったから、きっと今も覚えていらっしゃるのですね。汁なしかという不安な気持ち、よくわかります。

小学生ですから、事件までではないですが、いろいろありましたね。
汚い話しですが、授業中に同級生が突然吐いたりすることもあり、私が保健委員かなにかで、その友達を連れて、水道の蛇口まで連れて行ったこともあったことを思い出しました。
また、全員朝礼かなにかで、突然、女の子が倒れた、ようなこともよくあったように思います。貧血か寝不足だったと思います。
私は、華城小学校の池(大望の池)の掃除で、水を抜いて掃除をしているときに、すべって頭を打って、保健室で寝ていたことを思い出します。「たんこぶ」ができて、保健室で冷やしました。小学校6年の時です。たしか、友達と少しちばけちょったのが原因だったと思います。

また、友達が5円はげができていて、こんなはげもあるのかと思っていたら、自分も後頭部にできたこともありました。自分なりに、悩みがあったのかもしれません。

そうそう、同級生の女の子で、ヘビが大好きで、木造校舎のコンクリート製の長い流しで、つかまえたヘビをウナギのようにまっすぐに伸ばした子がいました。担任の女性の先生(村田八千代先生)がそれを見て、「もう、やめなさい」と言われていました。
当時の流しには、蛇口にミカンの鮮やかな赤色の網で石けんがぶらさがっていました。

西浦小学校は、夕方の有線放送で、天体観測をする案内が流れて、父と行った記憶があります。今は、学年1クラスと聞いています。
そういえば、今月始め約2週間前に、西浦丸山のあたりで、知人の家に向かうために、子どもと夜歩いていたら、ホタルが数匹、目の前を舞いました。突然でうれしかったですね。よく見ると、数匹いました。


私は、当時を思い出すと、楽しいことよりも、失敗したこと、恥をかいたことばかりを思い出します。
今の子どもたちは、何を覚えているのでしょうか。今の子どもたちは、情報がありすぎて、大変だなぁとよく思います。また、小学生から塾に通っている子もいますしね。スポ少の試合などで、土日もないような子どもたちもいます。

私たちのころは、下校時に、みんなで野いちごを食べたり、サヤエンドウの笛を吹いたり(私は吹けなかった)、途中の家に「水を飲ませて下さい」と入ったりしていましたが、農薬もあったり、野いちごの空き地はなくなったし、今ではできないことだらけです。夕方には、薪をくべて、風呂を沸かしたり、当時はゆったりとした時間がありました。

本当にありがとうございました。またの投稿をお待ちしています。

○この掲示板をご覧いただいている全てのみなさまへ
ありがとうございます。1996年6月17日掲示板開始より、17年となりました。

サイト自体の立ち上げは、1995年8月24日。ヤフー日本版もない時代。それから、サイトを運営していると、掲示板をしたほうがいいという、山野@横浜こどもの国さんからのご助言で、掲示板を開始し、 大阪市のRyujiroさんから初めての投稿があったのが、1996年6月17日です。それから、早くも17年となりました。
多くの皆さまからのご支援、ご援助、激励のメールなど、本当にありがとうございます。お礼をお伝えしたいのですが、連絡先もわからない方も多く、申し訳ない思いでいっぱいです。多くの皆さまの思いに包まれながら、運営をしています。
今後とも、どうぞよろしくお願いします。
9897 6/21 toupen・yantu 兵庫県神戸市
須磨区
takaさんへ  17年20間もの「ホームページ」の維持管理 大変でしたでしょう!。PCの変遷の影響などで、対応しなければならない事項が多々あったと思います。今後も困難な事があるかもしれませんが永く々続けられるよう願っています。今後ともよろしくお願いいたします。
9898 6/21 taka21 防府市植松 ○toupen・yantuさんへ
あたたかな励まし、本当にありがとうございます。
多くの方々のお陰で、なんとか維持管理をさせていただいています。
2013年6月16日日曜日の深夜の日テレ系のNNNドキュメントで、「ふたりの桃源郷 〜最終章〜」が放送されました。これは、山口放送の制作で、23年間もの取材をもとに制作をされました。やはり、長い年月の情報の蓄積が、素晴らしい番組制作に繋がっていることを感じました。
私自身も、100年先を目指してと書いてはいますが、まずは、2030年を目指して、がんばってまいりたいと思います。
本当にありがとうございます。こちらこそ、どうぞよろしくお願いします。
9899 6/21 田中正穂 入間市

■爺河童さん、子供時代のお話とても興味深く拝読しました。貴重な体験談ありがとうございます。爺河童さんの記憶力はすごいですね。

■わたしは1947年防府市高砂(今は松崎に変わったようですが)で生まれ、1960年頃、家族揃って東京に出てきました。生まれてから中学2年の春休みまで、つまり、約12年間の子供時代を防府で過ごしたことになります。

■その頃、日本はまだ高度成長期時代に入ったばかりでした。家具職人の親父はなかなか仕事が見つからず、職場を転々としていたようです。その事情からよく引っ越しをしました。着るものはいつも兄貴のお古でした。学校へ行くときは着古したつんつるてんの学生服でした。袖は鼻汁で汚れて光っていました。しかし、貧乏が苦にはならなかったですね。何しろ、右を見ても左を見ても周りの友達もみな貧乏人ばかりでしたから。

■あの頃の子供達に物は不足していましたが、青い空と、真っ赤な夕焼けと、きれいな川と、広い野原と、沢山の仲間がありました。そして、何より自由な時間が沢山ありました。通学路も、通学班もなく、毎日好きな道を気の合った友達と道草をくいながら通ったものです。「みちくさをくう」・・・懐かしい言葉です。

 「あめふる ふるさとは はだしであるく」

■これは防府が生んだ俳人種田山頭火の俳句です。わたしの一番好きな句です。この句を唱えるとき、子供時代の自由の天地が彷彿と蘇ってくるような気がします。

■入学したのは華浦小学校です。5年生の時まで通いました。その頃福衆町(字は間違っているかも知れません。今の地名は三田尻に変わったようです)に住んでいました。爺河童さんが住んでおられた局の内からみると海寄りに位置します。

■ここに引っ越した当初、夜は道路側の窓を開けるなと両親から言われていました。ある晩、こっそりと二階の窓から外の景色を覗いてみました。わたしは、自分の目を疑いました。なんと、町中が煌びやかなネオンサインで輝いていたのです。昼間は薄汚い家並みが恰も老婆が厚化粧を施したかのように変身していたのです。じっと、目を凝らしてみると、軒先で男女が抱き合っている姿が目にとまりました。男性はアメリカ兵のようでした。売春防止法が施行される直前だったのですね。間もなくネオンサインも米兵も姿を消しました。

■「孟母三遷の教え」とはほど遠い劣悪な環境に住んでいたわけですが、この頃の思い出が一番心に残っています。もしも、自分に文才があれば、この頃に体験した出来事をテーマにいくつか童話が書けそうな気がします。

■今年の1月のはじめ此処を訪れたとき近くの交番でお巡りさんと話をしました。年配のお巡りさんによると2,30年前までは治安のわるいところだったそうです。

■この頃の体験談を一つだけ書いておきます。

◇家の庭から協和発酵の大きな煙突が見えました。風向きによっては、庭に干した洗濯物が煤煙で黒く汚れることがありました。しかし、わたしたち悪ガキどもは協和発酵の工場に対して好感を抱いていました。なぜなら、この工場はわたしたちにとっておやつのもとだったからです。

◇悪ガキ達数人はときおり袋を手にして工場近くの踏切に行きました。(現在、鉄道も踏切も無くなっています)。そして、道の片隅にひそんでダンプカーを待ち伏せしました。息を殺して待っていると、サツマイモを大量に積んだダンプカーがやってきます。このサツマイモは協和発酵の原料になるものでした。車は踏切の手前で一時停止しゆっくりと踏切を渡っていきます。

◇そのときその巨体はゆさゆさと大きく揺れました。その刹那カバーシートの隙間からサツマイモがころころと道に転がり落ちるのです。子供達は歓声を上げ我先に道に飛び出し落ちているサツマイモを拾い集めました。これを家に持ち帰り薄くスライスしてフライパンで焼いて食べました。ほとんどのイモは黴が生えており屑イモばかりでしたが、腹を下した子どもはいなかったようです。

◇おやつもろくに無かった時代でした。

■悲しい思い出、辛かった思い出、楽しかった思い出、今となってはどれもこれも私にとっては貴重な宝物です。そして、防府は自分の体の一部を今もなお形成しているような気がします。


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